「真理の御霊」

最後の審判(次元上昇)を超えるために1999年からひふみともこさんに下ろされている神示をお伝えします

神から人へ◎最後の審判・神の心でこの世を見る事◎

 

 

神がこの世に創られし、この地球、自然、大地の恵、

太陽の恵、海山の産物、植物、動物、昆虫、

その他諸々の生物、そして万物の霊長たる人類、

こうした一切の創造物は、みな神のみ力、ご意思、

ご意図によりて創られ、生を与えられ、魂を与えられ、

そして、多くの能力、知力、体力、それぞれに

見合いし、全てのものを必要に応じ、程よく備わせ

られた。それゆえ、一つ一つの調和、意識せずとも、

自ずと生じている全体の協力、団結が、

各々は意識せずとも、自然に図られ、働くように

創られていた。なれば、人のみが、己を持ち、

己のみを大事にしようと望み、行動する。

この世にある生命の中で最も魂を汚した生き物なり。 

 

 

なれど、それにても、神は、人をお見捨てにならず、

数々の、啓示、現象、事象によりて、人に気づきを

与え、悟りを与えんと、骨折られた。

気づきを得る者は少なく、逆に神を恨み、憎みて、

神から離れてしまう者多かりし。

なれど、今ついに、み役を持たせた多くの魂を、

この世に順次送られ、人の改心、悔悟、改悛、

神への下座と、我(が)の浄め、

魂の昇華(しょうげ)を、人一人一人が、

これまで以上に、容易に進められる環境、条件を

整えられた。なれば、今の世の人は、これまでの

長い歴史の中でも、最も神に近付き易く、

神の光を受け入れやすい、ありがたい環境といえよう。

なぜなら、昔はまだ、これほどまでに、地球、自然、

環境、生命の体系、お互いの連鎖が今ほど狂って

おらず、神もそれを見守っておられた時代には、

人の中に、幾人かの魂を送り込み、その者に、

奇跡を起こさせ、光を示させ、声や文字を持ちて、

人に伝えれば、それでことはすみ、治まりおりし

ゆえに。

人は今、最も危険な時を、なれど、ありがたき時を、

迎んとしている。神の奇跡は、ご自分のご存在を

お示しになるだけでなく、人をして、

いやがうえにも心を入れ替えさせ、心に染まずとも、

魂を浄化させることとならん。

 

 


この時にあたりて、最後まで神を信じず、我を張り、

己に囚われしままなれば、それは永遠の魂の消滅と

なるのみ。積み来たりし、多くの罪、汚れ(けがれ)、

魂の曇り、濁り、それら全て、一度に浄化させよ。

遅れし者は今、この時にも、まだ間に合うべし。

最期に伝えられる神のご意思、ご意図、それは今、

初めて人に伝えられることではなく、何千年も前

から、人々に伝えられしことなり。宗教者はみな

知っておりし。いかなる宗教であろうと、

この世の終わりに神が現れ、この世を一度は

壊滅させ、そして残されし者を使いて、

この世を再び神の国に復活させるであろうことを。

宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、

皆、同じ内容を伝えしものなり。なれば人は、

宗教の違いによらず、全て同じことを知り、

目指し、己を磨くことを、魂を浄め、高めることを、

図らずも、行わせられしものなり。 

 

   
神のみ力、神のお仕組み、神のご意思、ご意図、

神経綸(けいりん)、これら全て、今の世にては、

人の意識、知識、概念、能力、常識、良識を

越えしものなり。

どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は

不幸なり。逆に、なんら学なく、教養なく、知識、

学問、特技なく、文字を読むことすら出来ずとも、

神の偉大さ、崇高さを素直に感じ、信じらるるは

幸いなり。

なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。

文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを

素直に聞け、そのことを人に、文字・声・ことば

・書・光・音楽・絵画、その他のものを用いて、

人に伝えること可なる者はさらに幸いなり。

そなたの思う幸せとはいかなるものか。答えられしか。

我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。

  

 

人としての行が神の子としての行と直結し、心素直に、

目の前の学問、知識に曇らされることなく、

踊らされることなく、己に課されし行に取り組み、

最善を目指すことができること、そして、神の御心に

適うか否かのみが 心の基準であり、

心の働きが神と一体化し、己なく、我なく、人なく、

自分なく、あるのは神のご意思、ご意図のみであるか

のような、そうした心組みになれることなり。

さならば、人は、一切の束縛から放たれ、

自由無碍に、行い、楽しみ、無限の喜びに満たされ、

無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に

満ち溢れん。 

 

 

人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。

永遠の時の流れで、各々の魂に応じて決まりゆく

ものなり。今、富に満たされ、金銭、物質に恵まれ、

何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、

あの世に戻らば、何も持ちて行けぬなり。あの世に

持ちて帰らるるものは魂ひとつなり。

汚れし魂残りし者は、あの世にて、その汚れを取る

ための、苦しく、辛く、永き行あり。汚れ、曇り、

濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみ

なり。それゆえ、人はできる限り、この世で行を積み、

魂を磨き、浄め、高めねばばらなくなり。

人はこうして、この世の行を積むなれど、

苦しいだけが行にあらず。楽しく、嬉しく、喜びに

満ち、心豊かに行えるが本物なり。

苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、

どちらも、魂に曇りを作らん。

どちらに囚われても、魂は曇り、汚れてゆかん。

望ましきは どちらも経験し、心を常に中庸に保ち、

安定を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。

難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己を強く律する

鍛錬を行い行かば、 自ずと到達せん。 


 


そなたが望む幸せは、そなたの思いがどれほど、

神の御心に適うものか否かで決まりゆかん。

神の御心に添い、神の御心に近づかんと努力する

ことで、そなたの魂が、 神の御心と調和し、

連動し始め、共振し始むれば、ことは一切が

うまく運びゆかん。

それまでは己の鍛錬(たんれん)を繰り返し、

魂を浄め高めてゆくことが第一なり。

この世の栄耀栄華(えいようえいが)、その空しさ、

儚さ(はかなさ)は、古来、人も語り続けしこと

なり。この世が全てではなく、あの世にても

魂は続き、幸せが、単に肉体のみに与えられ、

感じられるものでなきことを知らば、幸せなるものの

本質も自ずと悟られよう。

道遠く、険しく、困難に見えようとも、人間心を

捨ててかからば、そは決して遠く険しき道にあらず。

神の光に照らされて、我なく、欲なく、執着なく、

自由なままに、神と共にあることを感じ、信じ、

神と一体して歩むとき、神は、多くの恵み、仕組みを

授けられん。光照らし、光明世界を実現されん。 


 


神仕組み、神経綸、一人一人のためにありし。

そして、人全体、地球全体、宇宙全体、一切のため

働くなり。神人一体、人皆、神の子、宇宙の一部。

なれば、一人の我欲に囚われ生きることほど、

つまらぬものなし。大局に立ち、神の心でこの世を

見れば、いかに一人の人間が矮小(わいしょう)

なるか、見えてくるらん。

人、神、その間に何もなし。神は人と共にあるなり。

人、行を積まば、神の御心そのものになりゆくなり。

一人一人が行を見つけ、行を見出し、素直に行ずる、

一途に行ずる。それが神の望まれる在り方なり。

よく求め、よく聞く者は、よき導きを得ん。

よく望み、よく働く者は、よき実りを得ん。

よき心、よき魂、よき働き、いずれが先か分からねど、

人の全てを持ちて、行を積まば、全体がよく働き、

巡り始めん。

考え過ぎず、悩み過ぎず、目の前に囚われず、

大局から眺め、考えゆかれんことを。

大局から考え行うことは、神の御心に適うことなり。

必要あって仕組まれしことも、さすれば見えてこよう。

己の中に閉じこもりしは、己の目を曇らすことなり。

今日もそなたの行の成就を祈らん。これにて今日の

問答は終わらん。 

 

 

神の声を伝える人
ひふみともこさん著書  神から人へ(上)」より抜粋
ひふみともこさんHP
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大神神社 狭井神社 三輪山の巫女

「三輪の祈り(ひふみの祈り)」
http://kukurihime.blog.jp/